エストニアとリモートワークについて私が知っている二、三の事柄

エストニアと開発をしていたら、突如オフィスを失い、リモートワークになったCTOの日々のメモです。

チェーホフの『桜の園』を読む

島田雅彦福田和也の『世紀末新マンザイ パンク右翼 vs サヨク青二才』読了。前回の日記に「なかなか面白い」と書いた矢先なのですが、「しかし、こんなものばかり読んでいては駄目だな」とも今日思いました。
本を大量に読む者のひとつの「危険」ではあるのですが、本を読み慣れてくると、「どんな本でもそれなりに面白く」「どんな本でもそれなりに得るところがある」というようなところに行ってしまうことがあります。「活字中毒者」同士でよく話すことなのですが、本は麻薬のようなところがあって、とりあえず、どんな活字であっても「読めればいい」というような風になって、それではまずいな、とも思うわけです。
勿論、娯楽としての読書はそれはそれで楽しいのですが、たまには、自分が世界を見ている、その<方法>だとか<概念装置>とかですね、そういったものを吟味し、揺さぶるような「古典」と向き合ったりすることも必要なのかなぁ、とぼんやり考えます。
本を読んでいると、読みながら、ぼーっと考えたりもしますから、何か「考えた気」になったりすることもあるのですが、本当に考えるというのは、たまには(本当に)額に汗するぐらい考えることであって、そう言えば、大学時代のある哲学教授はハイデッガーのある一節が分かるまでには、6年かかったりしたそうで、こちらはある一節のために6年も費やしたこともなくて、本を読むたびにそのつど、「何となく分かるぞ」とイメージで読んでいることが多いような気がします。

何の拘束もない幸せな一年を送るにあたって、「古典を読もう」と決意したのでした。

だからというわけではなく、昨晩、電話でSくんに勧められたことがあって、チェーホフの『桜の園』を読み始めました。