エストニアとリモートワークについて私が知っている二、三の事柄

エストニアと開発をしていたら、突如オフィスを失い、リモートワークになったCTOの日々のメモです。

ジャイロ・コード

私たちは

何をするかよりも、誰とやるかを
能力より、真摯さを
個人の利益よりも、チームの利益を
過去の成功体験よりも、未来の成功を

左記のことがらに価値があることを認めながらも、右記のことがらに価値をおき、全員がエンジニアであることを義務付けられた組織である。

 

https://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/1904/10/news007_2.html

藤田伸一の平成インターネット私史

僕の平成インターネット史です。

僕としては、黎明期からインターネットの可能性にかけ、「個人のEmpowerment」を旗頭にして、20年前にはインターネット掲示板でベタに「論争」なんかしていたわけです。しかしながら、その時話していた「男と女の話」や「資本主義の話」などがどれもこれも進展せずに、今もなおイシューとして残っていることに愕然たる思いを感じながらも、それでも何かが変わったとか信じてみたいわけです。

※●は自分史です。

●1989年(平成元年) 大学入学

●1992年11月(平成3年)
ハイナー・ミュラーハムレットマシーン』(商品劇場、1992年、早大構内スペース5)撮影
https://www.youtube.com/watch?v=csTgae7iQ3Q&playnext=1&list=PL6D836E8F46FEF4A9

1994年(平成6年)
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』(商品劇場、1994年、こまばアゴラ劇場)撮影
https://youtu.be/qH2GylVwrZA

●1995年(平成7年) 商品劇場ホームページ設立
https://web.archive.org/web/19991008213056/http://www.kt.rim.or.jp:80/~sfujita/shohin-index.html
→現在は大岡淳の個人サイトがあります:日本軽佻派 大岡淳と申しますっ!
https://ookajun.com/

1995年11月23日  Windows95発売

Franky Online参加
https://i.impressrd.jp/files/images/bn/pdf/im199508-118-franky.pdf

●ダンテ『神曲』(商品劇場、1996年、本郷DOK)撮影
https://youtu.be/a0oBB75ftz8

●1997年?(平成9年) 個人サイト Midnight Cafe設立
https://web.archive.org/web/20000824101822/http://www02.so-net.ne.jp/~sfujita/

このBBSには、佐藤文香さん(現 一橋大学 教授)、野尻英一さん(現 大阪大学 准教授)、松井隆志さん(現 武蔵大学 准教授)などが参加していました。((※)不適切であれば、メッセンジャーでご指摘ください。こちらのpostからのお名前、リンク外します。)

●1998年3月(平成10年) AOLジャパン 入社

1999(平成11年)年5月 2ちゃんねる開始

●1999年12月 Midnight Cafe更新停止

2004年3月(平成16年) ミクシイ(mixi)開始

●2004年7月 AOLジャパンの事業譲渡とともに退社

●2005年7月(平成17年) 国産SNS ココロ・プラネット設立
https://web.archive.org/web/20050731015445/http://www.kokoroplanet.jp/

●2008年3月(平成20年) ベトナムのオフショア会社設立
https://www.value-press.com/pressrelease/24555

2008年4月(平成20年) Twitter 日本語版 開始

2008年5月(平成20年) Facebook 日本語版 開始

●2009年(平成21年)ベトナムのオフショア会社 売却
https://digiper.com/topics/article/394.shtml

2011年(平成23年)国産ビジネスチャット Chatwork(チャットワーク開始)
チャットワークをベトナム及びオフショア業界に普及させる
https://go.chatwork.com/ja/case/vitalify.html

●2012年9月(平成24年) エボラブルアジア 入社

ベトナムオフショアの拡大を続ける
https://type.jp/et/feature/old_contents/article/offshore-dev/

●2018年10月(平成30年) 「データ主権を個人に」プラネットウェイ 参画
https://planetway.com/

→プラネットウェイ で藤田が何をやろうとしているのかについてのインタビュー
http://hitogoto.com/shinichi/

●2019年4月(平成31年) Facebookへの積極的投稿を停止

しかし、こうして見ると、やっぱり元号って、識別子として、もはや機能していないですね・・・

僕も子供が生まれて、色々と書類に記載するまでは、平成何年とかって全然意識していなかったですもの。

そんなわけで、さようなら平成、さようなら元号Facebook、(色々と)頑張ってね!

2010年の藤田の目標

さて、2010年もいつも間にか9月も中旬となった。

年明けの目標についてチェックしてみたい。

今年はブログで何かを書くことを再開したい。
目標(1)このブログで時々何かを書く。

→全然できていません。今から少しづつ書きますか。

目標(2)Goodle Doc で始めた日記を続ける

→これも途中で止めてしまいました。Twitterがあるので日記をつける意味があまりなくなってしまいました(笑)。

目標(2)Twitterで遊び続ける
(これは仕事である(笑)。Follower が 3333人になるぐらいの情報提供を目指そう。)

これは実現しています(笑)。Followerは目標の半分の1600程度です。
http://twitter.com/#!/fujitass

さらに有益な情報提供を続けます。

目標(3)英語の学習法をまとめる

「英語喉」という考え方を知ったことで、発音に関しては飛躍的な改善方法が分かった。資料は集めているので、執筆活動に移りたい。

CD付 英語喉 50のメソッド

CD付 英語喉 50のメソッド

目標(4)ベトナム語の日常会話ができるように勉強する。

ベトナム語はまったく手つかずである。

本職のソフトウェア開発の品質問題が喫緊の課題。そんなホーチミンの秋です。(暖かいですが(笑)。)

【特別対談】情報革命期の純文学/東浩紀+平野啓一郎(「新潮」2010年1月号より転載)が面白い

東浩紀平野啓一郎の「新潮」での対談がウェブで全文掲載されている。

http://www.shin。chosha.co.jp/shincho/201001_talk01.html

東 まず言えるのは、ここ二十年間ぐらい、思想や批評の表現が驚くほど不自由になってきてるということです。そこでやれることには限界がある。その点では僕は批評家としては割り切ってきている。批評で世の中を動かそうと思ったら、ちまちま評論を書くより、テレビに出たりブログを書いたりするほうがよほど効率がいい

人文系の批評が力を失うということは別のところで宮台真司も言っている。
これからは「世の中を動かす」ためにも、小説を書いたり、映画を作ったりしないといけないのかもしれない。

東 いや、平野さん、それは違うと思う。今ライトノベルとかケータイ小説とか、もしくは『ダ・ヴィンチ』系のエンタメ小説がなんで優位なのかというと、あれは映像文化へのアクセスを持ってるからです。

平野 ああ、それはありますね。

東 つまり、彼らは実際の部数の何十倍の影響力を持つ可能性がある。純文学からはその回路が開けていない。ここに決定的な差があって、部数だけで見ると、川上未映子さんの『ヘヴン』が西尾維新と極端には違わないじゃないかといっても、それはやはり違うんです。もちろん、売れてりゃいいってわけじゃないですよ。ただ、想像力の源泉として何回も再利用される場に純文学がアクセスできなくなっているのは、まあ問題なのかなあと。
平野 それはそう思います。
東 そういう点では村上春樹はずばぬけている。部数の問題じゃないんです。純文学は読まないけど、村上春樹だけは読んでいるという作家たちがエンタメには大量にいる。そしてそれを通じて想像力の感染が起きている。となってくると、純文学の書き手も、少しは映像化される小説を書いたらいいのかなあと、えらく具体的な話になってしまうのだけど(笑)

えらく具体的な話なのだが、今や、「映像化」が考えられないような「ネタ」は生き残ることが出来ないのだ。「ネタ」「キャラクター」というのが本当に重要だ。

東 むろん、だからといって、文体のよさを捨てる必要はまったくない。ただ、文体のよさに時間をかけることができる、その余裕をどうやって調達するかというだけの話です。だから面白い物語を作ればいい。単純にそう思います。ただ、その時に、文体のよさこそが、それだけがわれわれの売りなんだというロジックがありますね。純文学は文体だ、エンタメは物語だ、みたいな二分法。蓮實重彦氏が広めたものですが、いまではそれは自滅のロジックです。

平野 うまくいかないですね、それは。

東 いい文章を書くためには余暇が必要だ。そのためにはいい物語を書いて売れなければならない。これはとても明確な話だと思います。さきほど平野さんは、エンターテインメントはパッと読んでハイ終わり、純文学は残ると言ったけど、問題は「残る」ということの意味です。個人の中で残るというのもあるんだと思うけど、やっぱり文学に力があるとすれば、集団の中で残っていくことなんですよ。

この蓮實重彦の「物語批判」「凡庸批判」「通俗批判」によって、僕は20代、30代を棒に振ってしまったのかもしれない。物語最高、凡庸歓迎、通俗どんと来い・・・なのである。これは僕の人生観そのものを変えなければならない。

東 批評の話にずらして答えます。僕は若い人から彼らが書いた批評を読んでくれと言われることが多いわけですけど、批評の良し悪しって本当に驚くくらい簡単にわかるんです。段落の長さとか、一段落の中にどのくらい固有名が入ってるか、そういうリズムだけですぐわかる。なぜかというと、そのリズムは構造化のリズムだからです。構造化の精度は、結局その人間がどのくらい頭がクリアになってるかを示している。
 さっきメディアのレイヤーという話がありましたけど、たとえば段落の長さは、視覚情報として文章の理解を支援するわけです。そういう技術をどう使うかが、実は評論を書くうえですごく本質的です。おそらく小説も同じだと思うんです。

平野 そこで東さんが瞬時に判断するのは、文体も含むんですか。

東 文体はもっと細かい判断になります。「である」とか「だ」とか、あと句読点とか接続詞のリズムですよね。だからそう瞬間的には判断できませんね。けれども、評論だと、やはり構造化の力のほうが重要です。だから原稿の質は印刷された時の形でわかる。
 じつは僕が評論を書く時に一番最初にイメージするのは、画面上での長方形の形なんですよね。五段落ぐらいを一ユニットにして一行空けて、というのが僕の評論のスタイルなんですけど、その五段落の中で問題提起と結論があるという構造に大体なってて、その中にどれぐらいの固有名が入るか、それがかなり経験則で決まっているんです。だから、今回僕が小説書いてて一番きつかったのは、そのような経験がないことでした。何がいい小説か、視覚情報として見えてこない状態で手探りで書くほかなかった。

この表現は東浩紀が批評家としてどれだけ優れているかを示している。彼は批評の良し悪しを、視覚情報を通して分かるわけだ。ある意味での共感覚だと言っていい。
もちろん、本好きであれば、「本をざっと見ると、面白そうであるかが何となく分かる」というようなことはあるのだが。

東 ドストエフスキーの小説で「キャラが立っている」ことには、とても大きい意味があると思うんです。僕はもともと小説家ではドストエフスキーが一番好きなんですが。

平野 僕も、最近はそうかもしれない。

東 主人公が延々と悩み、描写がどんどん複雑になっていくタイプの小説ってちょっと苦手なんですよね。それが僕がSFやミステリーに近づいてしまうことの原因なんですが、ただ、それは小説というか文学の本質でもあるかもしれないと今回小説を書いて思いました。悩む主体を書こうとすると、主体を一個にせざるをえない。私小説にせざるをえない。「俺は、俺は……」と悩み続ける主体はたしかに書けるんだけど、キャラクターをいっぱい作ってそれぞれが悩んでたら、物語がまったく動かない。というより、何が起こってるのか、読者にわからなくなってしまう。

東 同意見です。複雑なこと考えてもアウトプットは単純、というのでいいと思う。だからこそ、小説家はまずプロットで勝負するべきだと思うんですよ。
平野 同感です。要約できない文学のほうがいいって言う人がいますけど、間違ってると思う。

東 それはたいへんな倒錯だと思う。本当に知的なのは要約されて生き延びる小説のほうですよ。文体は要約できないけどプロットは要約できる。その伝播能力はすごい。それで改めて思うけど、ドストエフスキーはやっぱりプロットが強力なんですよね。

平野 強いし、切り方がまたうまいんですね。日本の小説は、海外で読まれようと思った
時、特にヨーロッパ系の言語に訳される時には、文体は大半が失われますけど、プロットというのは文化的な差異をかなりたくましく越えていきますね。神話が広まったのはそういうことでしょう。ちょっと前までは、物語批判の文脈で、プロットが強いと説話論的な還元に屈するみたいな感じで全否定されてたけど。

東 説話論的還元で全然OKですよね。説話論的に還元されるからこそ人は読む。

「プロット」「キャラクター」「ネタ」は大歓迎なのだ。

東 音楽でmp3が出た時に、というかすでにLPがCDになった段階で、音楽マニアは「これじゃ音楽のよさはわからない」とか言っていた。けれどもいまや着うたですよ。しかしたとえどれほど音質が悪くても、メロディがよければ人は聴いてしまう。それこそが音楽の力です。文体にこだわってるのって、その点で再生の音質とか環境にこだわってるというのとすごく似ている。

僕自身は、もうアナログにこだわったり、CDにこだわるようなことはない。PCでダウンロードして、MP3プレイヤーで聞けばいいと思っている。
文体にこだわる僕は、音質や環境にこだわっているのと同じだ。
この比喩は「文体」にこだわる僕の目を覚ましてくれた。

この対談は、多くの小説に興味のある人に読んで欲しい。

http://www.shinchosha.co.jp/shincho/201001_talk01.html