エストニアとリモートワークについて私が知っている二、三の事柄

エストニアと開発をしていたら、突如オフィスを失い、リモートワークになったCTOの日々のメモです。

サヨクから遠く離れて

時に思うのだけれども、こちらの日記も含めて、日本のサイトにある「日記」のページについて時々思うことがある。それらはそれぞれにおいてそれぞれの個性がありながら、まとめてしまえば「豊かな国の豊かな話」なんじゃないかって。
色んなCDがあり、色んな本があって、それらを買ったり聞いたり読んだりしながら、こちらの生活は成り立っており、それはそれで絶対に悪いことではない。
しかし、それらの多様さが特にモノトーンのように単調に思えることがあって、それはこちらのページも同じことである。それを「豊かな国の豊かな話」だけにしないためには、どうすればいいのかってことをぼんやりと考えていたりします。

伊藤整『鳴海仙吉』読了。後半の展開は私小説のパロディになっているのか危ぶまれるくらい深刻なタッチになってしまって、伊藤整もやはり日本近代小説の山脈に属すると再認したりもするのだけれども、途中に挟まれる戯作的な批評文も含めて、これは日本近代文学のひとつの豊かな果実だと思う。素晴らしい。
阿部和重の『アメリカの夜』を読み始める。期待していた以上に面白い。『インディヴィジュアル・プロジェクション』はタイトルと表紙装丁に違わず、気負いすぎていたような気がするが、この『アメリカの夜』の話者の恥じらい具合は、何故か吉田健一を思わせて、非常に上品だ。
とても読む気がしない『レディ・ジョーカー』の高村薫の顔ではないが、あまり気負いすぎるというのは印象批評ではなくて、話者の上品な立ち回りという意味で、近代小説のひとつの<倫理>だと思う。高村薫は何冊か読んだことがあるが、彼女の小説は下品であるだけではなく、単に小説家として持つべき<倫理性>に欠けているのだ。
 阿部和重には確かにそれがある。
 伊藤整にもそれはある。