エストニアとリモートワークについて私が知っている二、三の事柄

エストニアと開発をしていたら、突如オフィスを失い、リモートワークになったCTOの日々のメモです。

かっこいい爺さん

お久しぶりです。
会社の方はさほど忙しくなかったのですが、この1週間ほど連日連夜、とある掲示板で「自由主義史観」(「教科書が教えない歴史」などを書いている集まり。日本は「自虐史観」に冒されているなどと主張している)批判を繰り広げておりました。

「政治」については勉強はしているけれども、基本的には嫌いなので本当はあまり乗り気ではなかったのですが、最後まではやっておこうと批判を続けていたら、掲示板自体が潰れました。やれやれ。

しかし、Internet上でそういう議論も出来るようになったというのはひとつの可能性ですね。
海外でもああいうボードはもうたくさん出来ているんでしょうから、英語さえ問題なければ、世界の人と話ができるわけです。「世界」といってもインターネットに接続できる人たちの間だけではありますが、それでも大きな進歩でしょう。

さて。本は相変わらず読んでますが、昨日は動物行動学者 日高敏高の『プログラムとしての老い』(講談社)を読みました。「性」も「成長」も遺伝的にプログラムされているんだよ、といったような話。いわゆる「利己的遺伝子」の話をもとに、いろいろな話がされているのですが、こういう話はいつ読んでも面白いですね。
女の子がすぐに気になる自分を正当化したりしちゃったりして。。。
日高さんはそういう遺伝的プログラムを「シナリオ」だって考えようと言っています。「生まれて、恋して、愛して、そしていつか死ぬ」といったシナリオはあるんだけれど、その中でせいいっぱいやればいいじゃないかっていうことです。
 昔ならその「平凡さ」に反発したかもしれないけれど、もうすぐ27歳になる今、そういう平凡なアドバイスも何だか素直に聞けるようになりました。
「年齢」っていうのは確かにあるものだし、年を取ることは悪くないと思う。できれば、80歳ぐらいまで生きてみたいなぁ、って思います。

今日はサニーデイ・サービスの『愛と笑いの夜』を引っぱり出して聴いていました。
すごく寒い日で、昼間に窓を明けようとしたら、窓枠が凍っていました。。。

購入:田村隆一『詩集 狐の手袋』、柳澤桂子『われわれはなぜ死ぬのか』、マルクーゼ『幸福の哲学』など。

田村隆一はやっぱり戦後日本詩の中でもトップレベルだと思うな。ああいうかっこいい頑固じいさんに僕はなりたい。