エストニアとリモートワークについて私が知っている二、三の事柄

エストニアと開発をしていたら、突如オフィスを失い、リモートワークになったCTOの日々のメモです。

「純文学」とは何だろうか?

夜半から伊藤整の『鳴海仙吉』を読み始める。日本で最も本を読んでいる5人に入ると思われる友人に勧められたものだが、確かにこれは面白い。批評家志望や小説家志望の若者が読んだら、そのユーモアに満ちた自意識分析と彼の博学、そしてジョイスばりの小説手法のこれでもかという応酬に、半分ぐらいの若者は夢を諦めてしまうんじゃないだろうか。おまけにめっぽう面白い。こんな面白い小説が日本にはまだあったか。だから、読書はやめられない。(ただし、相当手に入りにくいです。筑摩現代文学大系51巻に所収。あるは伊藤整全集から探してください。)
真保裕一の短編『盗聴』読了。確かに「読ませる」エンターテイメントだけれども、これを小説で読む意味はどこまであるのか。あるいはエンターテイメント(中間小説?)といわうる純文学との違いはどこまであるのか?
小説の内容とは全く関係なく、そんなことを考える。

そこで当たり前すぎる、僕の中間小説の定義。
(1)改行が多くて、読みやすい。
(2)基本的に会話で進んでいくテンポの良さ。
(3)「なんだとぉっ」とか「しかし....」といったように、文章の中に
  撥音や記号を多用して、臨場感とテンポを出す。
(4)意味より、ストーリー。形容詞よりは、固有名詞。

で、これを反転させたものがいわゆる「純文学」だとすると、これはあまりにも杜撰な解決。
改行しないで、ごてごて形容詞を並べて、会話は少なめに、文章はだらだら長く、それで純文学が出来上がり!では安易すぎるっ。。。しかし、その2つをテキストの中だけで分別するのは、案外難しいのである。
いつかやってみたいと思います。(難しすぎて、発狂したりするかもしれません。)