エストニアとリモートワークについて私が知っている二、三の事柄

エストニアと開発をしていたら、突如オフィスを失い、リモートワークになったCTOの日々のメモです。

今日は祝日で会社はお休み。村上龍(『トパ−ズ』)の『KYOKO』(V)を見る。高岡早紀ちゃん。冒頭の無造作なカットから「う〜ん、大丈夫かな」と心配になってしまったのだが、だいじょうぶマイフレンド。高岡早紀ちゃんがすごくいい味を出していて共感できる。アメリカでの一人旅の大変さやKYOKOのとてもpureな気持ちが伝わってきて、ダンスシ−ンでは思わず涙ぐんでしまった。高岡早紀ちゃんいいなぁ。メイクはアメリカのスタッフが担当したと思われ、日本人の肌にあってないと思うけど、とにかく高岡早紀ちゃんの動き、セリフ回し、目。あんなに魅力的に怒る女の子はすごく貴重だと思った。映画的なsurpriseはないんだけど、とにかく高岡早紀ちゃんだけで、もっていく作品。村上龍さん、悪くないじゃないですか。
 昨日、梅田の紀ノ国屋で買ってきた、ドゥル−ズ=ガタリの『ミル・プラト−』と『ウイルス進化論』(早川NF文庫)を読み始める。最近、哲学や科学の本をあえて敬遠して、吉田健一にはまっていたんだけど、村上龍対談集『RYU'S 倶楽部』(毎日新聞社)を読んで、「まずい、このままだと単なる文学オヤジだと気づいて思い直したのである。
 吉田健一って文章にすごい魅力があって、「もうこれだけでいい」と思わせるんだけど、それは言い換えれば、それだけで自足しているような「閉ざされたテクスト」のような気がする。確かに彼の英文学解釈は優れたものだけど、引用の仕方といい、鑑賞の仕方といい、「ね、いいでしょ?」というような骨董趣味にやはり近いのではないだろうか?そのテクスト自体が他のテクストと交接し、相互侵犯しるようなスリルがないことは確かだ、なんて今日は似非ポストモダン気取り。