エストニアとリモートワークについて私が知っている二、三の事柄

エストニアと開発をしていたら、突如オフィスを失い、リモートワークになったCTOの日々のメモです。

『大人と子供によるハムレットマシーン』観劇メモ

こじんまりとした体育館のような稽古場が劇場である。

開演後、闇の中から、教室が出現する。

みんな自由だが不平等である資本主義社会と、みんな平等だが不自由である共産主義社会。

どちらがいいかを子供たちが話し合う。

いろんな意見はあるが、最後は民主主義的に決める。

照明はいくつかの簡素なライトのみを使っている。
舞台装置は、現代美術家石上和弘氏が製作した馬の足を模した木の梯子が2つだったか。
1つは舞台上手(向かって右側)に置かれており、もう一つは舞台下手(向かって)左側から吊るされている。

舞台は大人と子供による「2008年版ハムレットごっこ」と思しき寸劇と旧東ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』のテクストを交互に上演する。

寸劇には、バラク・オバマヒラリー・クリントンも出てくる。小室哲也の話題まである。


ハムレットマシーン』のテキスト自体は、1人あるいは2人の俳優にマイクを通して語られる。


僕はハムレットだった。
浜辺に立ち、
寄せては砕ける波とおしゃべりしていた。
背後には、廃墟のヨーロッパ。

おそらく、この芝居には演出家大岡淳氏が持ちえた近代日本100年の全ての演劇の歴史がある。

新劇もアングラ演劇も80年代小劇場も「現代演劇」(もし、そのようなものがあったならばであるが)の歴史も全てある。

大岡氏も意図的に自身のキャリアを総括するかのように、過去30本以上の演出経験で培った技法を惜しみなく舞台に投げ出している。

照明技術、身体技法、音楽技法、その全てが総決算に相応しいものだ。

今回の『大人と子供によるハムレットマシーン』は、「もしもブレヒトミュラーを演出したら?」というテーマがあったという。

その意味で、今回の作品は冒頭から終幕に至るまでブレヒト的な倫理と美学で見事に彩られたものだろう。

大岡淳氏は1992年に商品劇場の旗揚げ公演で『ハムレットマシーン』を上演している。

大岡氏自身が語っている通り、演出の軸やアイデアに関しては大きく変わっていないとも言える。

「主義」(ISM)は死んでも、「技法」(METHOD)は死なないのだ。

もし大きな違いがあるとするならば、ラストシーンのハムレット役とオフェーリア役の立ち位置だろう。

1992年版の『ハムレットマシーン』では決して出会うことのなかった男女が、今回は終幕で二人並び立つ。

そして、右手を挙げて最後の台詞を言い放つ。

拳銃も武器を持たずに、教室で手を挙げて発表するかのごとく最後の台詞を言う。

最後の台詞の選定は大岡氏の戯曲家・演出家としての才能の頂点である。

そして、これから、もう「一つの戦後」における新しい何かを彼ら自身が作り上げるのだろう。

それが社会体制であるのか、新しい共同体、はたまた新しい生き方のルールであるのかは未だ誰も知らない。

(後記)
SPACに劇評が掲載されていましたので、こちらでご紹介しておきます。

[http://spac.or.jp/critique/?p=40:title=座る椅子無きあとのオフィーリアとデモクラシーの行方
〜『大人と子供によるハムレットマシーン』劇評
原幸子]