刺激に執着するから真理が見えない
再び、スリランカ初期仏教長老、アルボムッレ・スマナサーラの『自立への道』(サンガ)より。
自立への道―ブッダはひとりだちを応援します (お釈迦さまが教えたこと)
- 作者: アルボムッレスマナサーラ,Alubomulle Sumanasara
- 出版社/メーカー: サンガ
- 発売日: 2008/05/01
- メディア: 単行本
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「孤独」を恐れない人、と題された章からの引用(P.141)である。
「なんだよ、宗教かよ。」と言われそうだが、今の僕には仏教がしっくり来る。
刺激に執着するから真理が見えない
このように、生命は、刺激を得ることしか考えられません。 人は、永遠の天国で永遠に楽しみたいとまで考えますが、これも刺激を求めようとする妄想です。刺激論にすぎません。簡単に、明確に、完全な証拠に基づいて、生きるとは何かを発見できるはずなのですが、刺激を得ることに汲々として、誰も真理を発見しよいとしないし、真理を発見する余裕すら持っていないのです。
「生きるとは刺激」という仏教の教えは、とても簡単で明確な事実、真理です。事実はこれしかありません。
例えば、生きることは苦しいというデータはあっても、生きることは楽しいという明確なデータはありません。にもかかわらず、刺激に眼が眩んでいる人々には、生きることはつまらない、ただ刺激を受けているだけだという真理が見えません。アメリカの大統領からホームレスまで、誰を見ても、ただ眼・耳・鼻・舌・身・意に刺激を受けているだけです。しかし、それを誰も認めません。世の中にある論理はすべて屁理屈です。
みな、刺激を求めることに忙しく、刺激が絶えずあることすら、知りません。しかし、刺激を求めてわざわざ忙しくする必要はありません。刺激を求めることをやめて瞑想に入っても、刺激自体は減ることも、なくなることもありません。ですから、刺激がなくて死ぬかもしれないという恐れはありません。刺激は常にあるのですから、だったら落ち着いて、刺激を選べばいいのです。
どんなところがしっくり来るのか。
例えば、このような引用部分です。
人は、永遠の天国で永遠に楽しみたいとまで考えますが、これも刺激を求めようとする妄想です。
アメリカの大統領からホームレスまで、誰を見ても、ただ眼・耳・鼻・舌・身・意に刺激を受けているだけです。
刺激は常にあるのですから、だったら落ち着いて、刺激を選べばいいのです。
ちなみに、刺激は、快でも不快でもよく、不幸な人間は不幸に執着するがゆえになかなか不幸から離れられないという文章もあります。幸福も結局執着になり、不幸になると。
最近はこんな本ばかりを読んでいます。